私の見ている現実は『私の解釈』②
『私の解釈』が、私を楽しませ、私を苦しめる。
物事の解釈は、意識や想像をはるかに超えたところでなされているようです。
無意識のうちに自動的に行われていることが圧倒的に多いでしょう。青いドレスが、「そう見える」事を疑いもしないように。
『私の解釈』が、私を楽しませてもくれるし、苦しみに突き落とす事もします。
では、私が楽しんだり、苦しんだりしているのは、全て『私の解釈』となるのでしょうか。ひどい事をされて、それで苦しい思いをしているのに、それも『私の解釈』なのでしょうか。
「あの人が意地悪な事を言う」のも『私の解釈』なのでしょうか。
ここで一つ大切なことは、それが『私の解釈』だと思いたくなければ、あるいは思えなければ、そう思わなくても良い、ということです。
カウンセリングで行われることは、何かを強制することでも、良い悪いの評価をすることでもありません。
それが「意地悪」だと思うなら、避けるなり、闘うなり、対処して良いのです。
ですがそれとは別に、実際に起きていると思っている事に、少し立ち止まって『私の解釈』かも、という視点を入れてみると、そこから『私』を知っていく、本当に『私を苦しめているもの』に気づく糸口につながっていくのです。
「あの人が意地悪な事を言う」
と
「あの人が意地悪な事を言うと、私が思っている」
の区別です。
意識が相手や状況に向けられているか、それとも私が解釈しているということに向けられているか、の区別です。
*このブログは臨床心理士としての経験的側面から書いています。医学的診断や根拠を上回るものではありません。
発達『障害』の意味するものとは
法律にある『障害』の定義
【障害者基本法】
(定義)から
第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
一 障害者 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。
二 社会的障壁 障害がある者にとつて日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。
『「障害」は個人の心身機能の障害と社会的障壁の相互作用によって創り出されているもの』とされています。
つまり個人の特性や機能的性質が、日常生活や社会の中で、社会的障壁によってその個人が苦痛を感じたり困った事態に直面している状態、と読み取れます。
『社会の障壁 』に対応するのが『合理的配慮』
【障害者基本法】
(差別の禁止)から
第四条
2 社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。
その個人が日常生活や社会で何を「障壁として」困っている状態にあるかは、個人的な視点によるところが大きいでしょう。
それ故、求められる合理的配慮は多岐にわたり、対話による相互理解を通じて必要かつ合理的な範囲で、柔軟に対応がなされるもの、とされています。
【障害者の権利に関する条約】
(第二条 定義)から
「合理的配慮」とは、障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
そして、教育の現場での合理的配慮の提供として考えられる事項は、
【文部科学省HP
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1297380.htm】
に明記されています。
子どもが『発達障害』かもしれないと思った時に向き合うものとは
「障害」という言葉に対して、人によっては大きなダメージを心に刻みます。
カウンセリングでは大切なテーマになりますが、主観的な捉え方に左右されるものでもあります。
子どもの発達障害の可能性を視野に入れた時、この主観的な「障害」に対するイメージや受け止め方について、ここでは記述を避けたいと思います。
では法律に沿って考えた場合、客観的に向き合っていくのは「社会的障壁」と「合理的配慮」になっていくかと思います。そしてここに丁寧に向き合うことができれば、「発達障害」という名称は必要がないのかもしれません。
しかし、逆説的ですが、丁寧に向き合うためには「発達障害かも」という視点は必要だと考えています。
なぜなら、"みんなとは少し違う”、"年齢相応ではない”、"問題行動を起こす”といった事柄を、気持ちや意思の問題としてではなく、機能的なことに起因するものとして見ていくことが、本人にとっての必要な対応につながる可能性が大きいからです。
そのように見ることは、「困った子」ではなく、「何に困っているのか」という視点で見ることにつながります。
*このブログは臨床心理士としての経験的側面から書いています。医学的診断や根拠を上回るものではありません。
私の見ている現実は『私の解釈』①
『私』の見方と、「あなた」の見方は違う
同じものを見ていても、どのように見ているのかは人によって違います。
『私』の見方と、「あなた」の見方は違う。
この事をきちんと認識できると、今まで見ていた自分の現実が、自分の解釈だったと分かる第一歩となります。
❖少し前に話題になった「青いドレス問題」
ドレスは
青×黒に見えますか?
白×金に見えますか?
自分が見えてる色ではない色で見えている人がいるという事実。
それを知らなければ、当然、みんな同じ色で見ているという思い込みを疑わないでしょう。
❖心理学で有名な「ルビンの壺」
この図は
壺の絵ですか?
人の顔が向かい合っている絵ですか?
白と黒、どちらを強く見るかによって、この図が全く違うものに見えます。
❖トマト
トマトは
美味しそうですか?
嫌な感じですか?
この場合、見方というより、感じ方の違いという方が適切かもしれません。感触が嫌な人もいるでしょう。ぐにゃっとした感じ。みずみずしさが好きな人もいるかもしれません。トマトを見ればその食感がよみがえりますか?
好きな具合が「好き!」なのか「好き!!!」なのかによって、食べたい欲求や唾液の量も違ってくるかもしれません。
感覚や身体の反応も違ってきます。
トマトが好きな人同士で「好き」と言っても、実は全く同じように「好き」だという訳ではないのです。むしろ本当のところは分かり得ない事、と言ってもよいかもしれません。
好き、嫌いは、感情ですが、思い出や記憶によって、より強い感情を伴ってトマトを見る事もあります。
例えば子どもの時にベランダでトマトを育て、家族で楽しく食べた記憶があれば、トマトを見た時に温かな気持ちがついているでしょう。
もし、両親がケンカしてる時に、トマトが投げられたりしていたらトマトは凶器の代わりとなるような、恐ろしい感覚を感じるかもしれません。
トマトはただの物体ですが、ただの物体として見る人はいるでしょうか。
青いドレスもルビンの壺もトマトも、『私』の見方で見ています。「あなた」とは違います。
『私』の見方は『私』の様々な機能的、器質的な感覚や経験などのフィルターを通して見るオリジナルのものです。
そして、そのフィルターはほとんど無意識にかけられています。
『私』の見方が事実と思い込む
「青いドレス」が、「私とは違う色で見える人がいる」という事が分かった時、多くの人は驚きます。
同じ物を見ながら別の見え方があるという事に、謎解きを知るまでは信じることができないかもしれません。
『私』が見ているものが事実だと思い込んでいれば、違う事実を突きつけられた時にすぐには認める事が出来ずに混乱するでしょう。
見方が違うという事、見ている物に解釈を加えている事、無意識のフィルターは、それ自体気づく事がとても難しいのです。
さらに、その見方を修正したり、違う見方を受け入れる事は容易な事ではありません。
『私』の見方が事実と思い込む事の影響
青いドレスやルビンの壺やトマトの見方に違いがあったとしてもが、『私』にはたいした影響はないでしょう。人と『私』の見方は違うということを抵抗なく受け入れられる事柄でもあります。
しかし、人や状況に対しての見方だったらどうでしょう。見方や解釈次第では、大きな苦しみや不安を生み出します。
そして多くの場合、それが「自分の解釈」だと気がつきません。それは自分のアイデンティティや生き方にさえなり得ます。それ故、違う見方や解釈を受け入れたり修正する事に抵抗が働きます。
『私』の見方が事実だと思い込む事は、人生に多大なる影響を与えながら、気づく事はとても難しく、時に『私』の見方で自分を苦しめながら、この苦しみは自分ではどうにもならないと思うのです。
まずは上にあげたような『私』に影響のそれほどないシンプルな題材で、
同じ物を見ていても、『私』の見方と、「あなた」の見方は違う
という事を本当に実感として腑に落としてみてください。
人によって見方や感じ方は様々です。
見方や感じ方は測る物差しの無いものだから、自分と同じだと誤解しがちです。
自分の見ている現実は『私の解釈』、という視点を自分の中に取り入れられた時、苦しみや不安を緩めていくことにもつながっていくのです。
たんに、考え方を変えるといったことではなく。
*このブログは臨床心理士としての経験的側面から書いています。医学的診断や根拠を上回るものではありません。
「発達障害」の視点で見ることが必要な理由
気持ちや意思の問題か、脳の機能的な作用によるものか
気持ちや意思の問題か、脳の機能的な作用によるものなのか。
気持ち意思の問題だけでない見方、別の視点があると知っておくことは、場合によっては子育てをする上で必要なことかもしれません。
情緒的な問題の場合はもちろん気持ちに丁寧に対処していきます。しかし、「発達障害」の場合は気持ちや意思に訴えるだけの対処になると、二次障害(自尊心の低下、情緒の不安定、不適応等)を引き起こしたり、親が疲れ切ってしまい親子関係の悪化につながることもあります。
「発達障害」は脳の機能や発達が通常とは異なるために症状が現れるとされていますが、明確な原因は未だ解明されていないようです。
脳の働きそのものが人間の生命の神秘であると考えれば、そもそも原因を探ることが困難なのは当然のことかもしれません。
また、脳の働きが一人ひとり異なるのなら、本来は優劣をつけるものではないはずです。しかしながら脳の性質や機能によって、"ある社会”"ある集団"においては「逸脱した状態」「困った状態」「問題行動」となる、あるいは本人がそう感じる、ということもまた起こり得ています。
(*もちろん逆もありますね。「卓越した才能」「没頭する能力」「芸術性」とか)
問題の背景にあるものを見立てる
例えば『盗みをした子ども』。
起きたことは疑いもなく「問題行動」です。注意や叱責をする事は必要なことでしょう。
ですが「なぜそのようなことをしたのか」、原因や背景を探るには「問題行動」という見方をいったん脇に置いておく必要があります。
起きたことは「問題行動」でも、その子どもに「問題がある」ということではありません。「子どもに問題がある」を外して見ることは、子どもの内面で何が起こっているのかを知る上で重要なことです。親が子どもの問題行動に動揺するは当然ですが、対応する側の怒りや落胆といった感情は、子どもの内面に対してニュートラルに見る目を曇らせます。対応する側の心をいったんニュートラルに戻すことが、問題の背景にあるものを見立てるコツと言えるかもしれません。
冷静な目で見たときに、「盗み」の背景にあるものとして、例えば次のようなことがあげられます。
・SOS(寂しさ、不安など)を盗みという形で発信していた
・目の前に欲しい物があった
・他者からの強要
・その他
気持ちの問題に対処する
「問題行動」は盗みに関わらず、注目してほしい、という表現として捉えることも重要な視点です。"今、この寂しさ、不安、ストレスをなんとかしてくれないと、どうにかなっちゃいそうだよ”、と無意識に訴えている可能性があります。
今置かれている環境や親子関係、友人関係を見回したとき、あるいは本人にとって何か負荷がかかっている状況が見えたとき、もしSOS発信の可能性が見えたなら、気持ちを丁寧に聞いて受け取っていくことが第一優先になります。場合によっては環境を変える必要もあるかもしれません。(このあたりのことは別のテーマで書きます)
発達障害の視点で見たとき
もし、次のような様子が見られるのなら、発達障害の視点から対処した方が良いかもしれません。
・叱責した時には涙を流して反省するが、話が終わるとすぐに笑ったりしている
・強く叱責しても、また繰り返す
・理由を聞いても「よくわからない」「欲しかったから」など、短絡的な答えが多い
・状況によってすぐばれるような軽いウソをつく
・日常的に忘れ物が多い
気持ちや意思の問題だけではなく、目の前に欲しい物(刺激)があると考えや判断が抜け、"すぐ盗る”という行動に移っている可能性があります。
欲しい物が目の前にあって、「これを盗んだらまた怒られるかな」「お母さんに嫌われちゃうな」「警察に見つかったらどうしよう」とい考えが抜けてしまうようです。
怒られている時には本当に悪かったと反省をし、もう二度とやらないと心から誓うのですが、そういったものが全部吹っ飛び、またやってしまうのです。
ところが親は、再び同じ事をやった子どもに心底落胆します。自分の子育てが間違っていたのではないか、愛情が足りなかったのか、色々な事を考え落ち込み、自分を責めたりします。
盗みという行為が本人の意思とは関係なく起こっているとしたら、叱責や気持ちに訴えたり、本人の意思の力に期待することは、親子をさらに苦しめてしまうことにもなります。きちんと子育てに向き合っている親ほど苦しくなります。
ではどう対処するのか。
発達障害の視点での対処
前提として、発達障害がその人の全人格を表しているわけではありません。両親から受け継いだ性格や気質、育ってきた環境、人間関係などから人格は形成されていきます。
その上で、発達障害で言われるところの特性が混じっているのです。その度合いもまた人によって違います。ですから、ワンパターンの対処法のみ、ということがあり得ない事は強くお伝えしたいところです。
では、一つの例として、盗みの行為にどうのように対処するのか、大雑把に書きます。
・「盗みの行為」について本人はやめたいと思っているのかを確認(とても大事です)
・「やめたい」ことを前提に、「今度欲しい物が目の前にあったらどうするか」話し合う(実現可能な範囲で)
・もし「欲しいものが目の前にあったら盗ってしまいそう」(ここで怒らないように)と本人が言えたら、その環境やシチュエーションをなるべく遠ざける
・欲しい物があるシチュエーションに置かれた時、「盗まなかった」ら、その事をほめる
大切なことは盗ってしまいそうな気持は否定せず受け入れる、ということかもしれません。もちろんダメなことは明らかですが、それを怒りすぎてしまうと、隠すようになっていきます。隠されたりウソをつかれると、結果的にはその行為に対して対処できないまま親の目が届かない年齢になっていきます。そうなると親ができることは少なくなります。「悪い」とされている事を止められない言われ、それを受け入れるのはとても難しいことですし、この通りできないからと言ってそれもまた自分を責める材料にする必要もありません。
ですが、気持ちの問題だけではない、と捉えることもまた、親の気持ちを客観的にし、客観性を持たせる方が楽にはなることもあります。
「何度も繰り返す」をどうしていくか。何度も怒るしかないかもしれません。ですが、親ではあるけれど、サポーターのような役割になることで、その「問題行為」は子どもの成長過程での「課題対処」に変わり、結果的に親子の信頼関係や子どもの自尊心がマイナスの方向に大きく傾くことを避けられるかもしれません。
どこまでが気持ちの問題か、どこまでが脳の作用なのか、はっきり断定することはできません。結局は子育てで最も大切な「その子をよく見る」ということで、どう対処するのかが決まてくるのだと思います。
*発達障害と「盗みの行為」を関連づけたり断定する趣旨ではない事を強調いたします。
*このブログは臨床心理士としての経験的側面から書いています。医学的診断や根拠を上回るものではありません。
発達障害 子ども編 「宿題をやらないのは怠けているだけ?」②見通しが持てないということ
見通しが持てない、ということの影響
「見通しが持てる」ということは、
問題解決に向かってのステップを組み立てられること。
優先順位をつけて、初めから終わりまで効率良く計画を立てられること。
頭の中の整理ができること。
頭の中で「整理された見通し」は、きちんと予定が書き込まれた手帳のように、スムーズな行動につながっていくための重要な要素です。
あるいはテスト勉強で、どの教科にどのくらいの時間を割くべきか検討し、計画的に実行するためには、やはり「見通す能力」が必要です。
見通しが持てることと、気持ちや気分との関係は少なからずあって、メンタルにも影響を及ぼします。
見通しのある頭の中はクリアで 、様々な情報が入ってきても随時整理されるため、スムーズな行動に結びつきやすく、心の負担はそれほど感じずにすむでしょう。
では見通しが持てない場合はどうでしょう。
たくさんの情報が入ってきても、どれが重要で、何を優先すべきか、瞬時に判断できません。情報は頭の中にたまっていく一方です。入力ばかりで出力ができません。出力するための小さな糸口を探すことすら困難になっていきます。
手帳はあっても、書き方が分からなかったり、書き込むことはしてもその予定を実際の時間に当てはめて行動に移すことができなければ混乱するかもしれません。
テスト勉強では、見通しがないままその量の多さに圧倒されれば、計画を立てる前にやる気をなくしてしまうことは、容易に想像ができることです。
「見通しが持てない」ことは、思考の混乱につながり、整理できないまま不安ばかりが大きくなっていくことにつながる可能性があります。
あるいは、なす術がないまま無気力状態になってしまうかもしれません。
「宿題をやらない」ことと、見通しが持てないことは関係するか
・宿題はいつも夜遅くなってからようやく始める。
・宿題ができなくて癇癪を起こす。
・一つ一つやればできるのに、たくさんの問題が書いてあるプリントを見るとやる気をなくす。
もし、本人に「宿題はやらなければならない」という気持ちがあって、それでもいつもこのような状態になるなら、「見通しが持てていない」のかもしれません。
・宿題はいつも夜遅くなってからようやく始める。
⇒学校から帰って夜寝るまでの時間をどのように「見通している」か
・宿題ができなくて癇癪を起こす。
⇒宿題の内容をじっくりと「見通し」、考え、理解しようとしているか
・一つ一つやればできるのに、たくさんの問題が書いてあるプリントを見るとやる気をなくす。
⇒視覚的な情報量の多さに惑わされず、一つ一つ着実に取り組めば、最後までできるという「見通し」はあるか
ほかに例えば、
・何をするのでも時間を見ていない。時間の感覚がない。
・次に何をするのか分からず戸惑っていることが多い。あるいは何をしたら良いかよく聞いてくる。
ということが日常生活でよく見られるなら、「見通しが持てない」ことによってこのようなことが起きている可能性があります。
つまり、やるべきことの全体を見通して整理し、優先順位をつけて、時間感覚とすり合わせながら配分を考えていく、といった一連の思考が働きにくい傾向があると言えるかもしれません。
(これについて、良い、悪い、の概念は前提にないことを強調しておきます)
表面的には分からないことですが、「見通しをどのくらい持つことができるのか」という能力にはかなりの個人差があるようです。
見通しをもつことと、時間感覚の関連性
時間というのは、感覚です。時計はあくまでも現在の時間を示すものであり、例えば「1時間後」というのはあくまでも数文字でしかありません。
では「1時間」はどのくらいの時間感覚か、と言えば、それは人によって異なるでしょう。感覚的にほぼ正確につかめる人もいれば、全く分からないという人もいます。もし時計がない生活をしたら、たちまち混乱する人も多いかもしれません。
「1時間」という数文字から、時間という量への置き換えは感覚的なものにも関わらず、見通しをもつためには不可欠なことです。
ですが、実際は内面的な能力のために人がどのくらいの感覚で時間を感じているかを知ることはできません。それゆえ、"普通の感覚”、"年齢相応”な感覚で見てしまいがちです。
そうなると当然、宿題をやらない我が子を見て『なぜ早めにやらないの?』『なぜ時間を見て動けないの』『なぜ切り替えができないの』という言葉が出てきます。
前回の「判断」のところでも書きましたが、「やらないのか、やれないのか」で言えば、実際はやれないのかもしれないのです。
「見通しを持てない」を『発達障害』の視点から見てみると
どのくらいのくらいの「見通し」を持てているか、客観的に測ることは難しいですが、どうやらそれは頭の中の整理と時間感覚に関連しているようです。もしそれが日常や学校、社会生活に影響して本人が困ることなら、「判断」でも書いたように、『発達障害』の視点からの理解と対応が役に立つと考えます。
発達障害について⇒【厚生労働省㏋https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_develop.html】
『注意欠如多動症(ADHD)』の主な症状は、「多動性」「衝動性」「不注意」ですが、「見通しがもてない」ということは、「不注意」のカテゴリーに当てはめて考えることができます。
そして「不注意」の症状は、他の二つの症状よりも"目立ちにくい”、あるいは"怠けと誤解されやすい”、症状でもあります。それゆえ、見過ごされることも多く、あるいは叱責されやすく、本人は人知れずに困っていて、やがて別の形の「不適応」といった症状として現れる可能性もあります。
もちろん、見通しが持てないからといって、全ての人が困るわけではありません。本人の困り感は、遺伝的・気質的な性格や、育ってきた環境、現在の周囲の環境によって左右されるところが大きいと思います。
そのようなことも、どう対応していくか、サポートしていくか、といった時には十分考慮する必要があります。「不注意の傾向による見通しが持てない人」に対しての対応を、ただ一つのやり方として型通りに当てはめると、うまくいかないことが出てくるのです。
「見通しが持てない」ことにどのように対応するか
内的な思考過程に、外からなんらかの操作を加えようとするのはとても難しいことです。ですから、やってみて、検証し、またやってみて、といった試行錯誤はどうしても必要になってきます。
これには対応する側(親)と対応される側(子ども)の性格や相性にもかなり影響されます。逆に言えば、型通りのやり方がうまくいかないからといって、自分を責める必要はないのです。このことについてはまた詳しく書きます。
さて、ではどのように対応するかということですが、基本的な考え方として、
・"年齢相応”を基準にはしない。
・アイデアを惜しみなく伝える(優先順位や見通しをつける方法)。
・視覚的に情報・量を整理する(頭の中の混乱を出力)。
・時間の量を分かりやすい形に置き換える(時計・タイマーの活用など)。
・一緒に取り組む。
・経過をフォローする。
などといったことになるでしょうか。実はとてもシンプルです。すべての子育てに通じるところがあります。
ADHDの「不注意」の対応の仕方については多くの情報も出ているので、ご自分に合うものを参考にしても良いですね。
では具体的に、となると、実は複雑です。
先にも書いたようにそれは子どもの性格や状態、親の性格によるところが大きいので、状態をお聞きしながら丁寧に伝えていく必要があります。また、子どものそのような傾向は長期にわたっていくので、子どもの成長とともに対応も変えていく必要があります。ですので、親がサポートを受けながら子どもに対応していくということも、とても有効なことだと思っています。
また具体例などで書きたいと思います。
*このブログは臨床心理士としての経験的側面から書いています。医学的診断や根拠を上回るものではありません。
発達障害 子ども編 「宿題をやらないのは怠けているだけ?」①判断が抜けるということ
子どもの「問題」には、よく目を向けることから始める
友だちとのトラブルや情緒的問題、教室での落ち着きのなさや盗みなどの問題行動、あるいは宿題をやらない、やるべき事をやらない、といった日常的な子育ての悩みなど、子どもを育てていると困ったことや不安、心配事は尽きないものです。
親が困っていること、親がどうにかしたいと思っていることがあって、その問題を解決したいと思ったら、まずは子どもがなぜそのような現象を起こしているのか、その原因や理由に意識を向けてみます。
例えば宿題をやらない、、一見怠けているだけに思われる子どもによく目を向けてみます。
・宿題の内容が理解できない。
・反抗してやらない。
・不安や心配があって勉強が手につかない。
・やろうと思ってるけど、やり始めると他のことに気をとられる。集中し続けることができない。
・宿題をやること自体を忘れる。
・夜遅くなって切羽詰まらないとやらない。
・何から手をつけてよいのか分からない。
・宿題をやらないことに罪悪感がない。
・ゲームなどやりたいことに夢中になって、めんどくさい宿題はやらない。
「宿題をやらない」ということでも、なぜやらないのか、その原因や理由は子どもによって様々です。
そして、その原因や理由からさらに背景にあるものを推測していきます。
「問題」の背景にあるものは、目にはうつらない
さて、「宿題をやらない」ことの原因として、ここでは次のことについてみていきます。
やろうと思ってるけど、やり始めると他のことに気をとられる。集中し続けることができない。
これは子どもだけでなく、大人でもよくあることです。例えばやらなければいけない仕事があると急に片付けを始めたくなるのは、逃避行動とも言えるでしょう。
ですがここで区別したいのは、それが逃避行動なのか、あるいは他のことに気を取られた結果なのか、ということです。
他のことに気を取られた場合、別の言い方をすれば自分の興味ある刺激に反応し、結果的に集中が別のもの移った、ということになります。
・宿題に取りかかり始めると、ドリルに描いてある絵が気になって色を塗り始める。
・宿題をしているにも関わらず、外の声が気になって見に行く。
これは、本来集中するべき宿題から、色塗りや外の声に集中が移ったということです。
よくある子どもの光景かもしれませんが、それが「いつも」だったり、「ずっと」で、結果的に宿題をやらない、つまり日常生活に影響を与えるほどなら、刺激に反応する度合いが高いと言えるかもしれません。
「宿題をやらない」という一つの事象だけで判断することはもちろんできません。
例えば、
・時間割をそろえている間に何か気を取られ、持ち物の忘れ物が多い。
・気になったり、思いついたと同時に、状況に関わらず話し出す。
・自分の物ではないにも関わらず、欲しいと思った物を取ってしまう。
それら(あくまでも例ですが)がよくあり、場面に沿わないことが多く見られるなら、自分の興味ある刺激に反応しやすく、そのことに自制が効かない傾向があると言えるかもしれません。
つまり、自分の興味ある刺激が目の前にあれば、それに対して反応することを止めるのは難しい、ということが問題の背景として考えられます。
やらないのか、やれないのか、
やろうと思えばできるはずだ、やる気がないだけだ。
周りがそういう気持ちになるのはもっともなことです。実際本当にやらないのか、やれない(この場合、能力的にできないということは除きます)のかを見分けることは難しいでしょう。
先に書いたように、他の場面や状況ではどうか、という事を複合的に見ていくことが必要です。あるいは子どもの表情に目を向けてみると違いが分かるかもしれません。嫌々やっている時や面倒くさいと思っている時と、何かに気を取られている時の表情は、きっと違うでしょう(必ずしも、ではありませんが)。
そしてもし、やる気の問題だけでなく、興味ある刺激に気を取られる傾向が強ければ、本人の意思の力だけでやるべきことに集中し続けるということは、とても難しいことです。
というのも、刺激に即反応するということは、その間にある「判断」が抜けているかもしれないということだからです。
「外で声がして気になるけど、見に行ったらいつまもでも宿題が終わらないからとりあえずやってしまおう」
これが、「判断」です。
「判断」をする力があれば、例え興味ある事が目についても、反応する前に思考が働きます。そして自分の中で取捨選択をし、結果的に集中し続けることを選ぶこともできます。
しかし「判断」は、意識してしようと思ってもなかなかできるものではありません。判断を忘れないようにしようと思うことができるくらいなら、初めからそうしているでしょう。
そういった意味で、やらない、のではなく、やれない、ということが当てはまってくるかもしれないのです。
刺激と反応の間に「判断」があるかないか、ということは、その後の行動や集中にも大きく影響を与えるだけに、子どもを見る上で重要なポイントとなるでしょう。
「判断が抜ける」を『発達障害』の視点から見てみると
この状態を『発達障害』の視点から見てみると、(もちろん、このような傾向があるから発達障害である、と当てはめるものではありません)『注意欠如多動症(ADHD)』の見立てや対応が役に立つのではないかと考えます。
発達障害について⇒【厚生労働省㏋https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_develop.html】
「宿題をやらない」という一つの事象からは多動については分かりませんが、「判断が抜ける」という点においては、衝動性と不注意の両方の視点が子どもへの理解と対応の参考になるのかな、と経験的には思っています。
発達障害の視点から対応を考えるということは、意思や気持ちの力でどうにかしようとするものではなく、具体的な対処法を子どもにすり合わせていくという作業になっていきます。
これは、「あんなに言っても分かってくれない」「何度言ってもなぜできないの」などといった親のストレスを少しでも減らせることにもなります。このことの影響は子育てにとってはとても大きいと思いますが、これについてはまた書きます。
「判断が抜ける」ことにどのように対応するのか
刺激と反応の間に「判断」する力をつけていくことは、長期的な展望ではとても大切なことです。ですが、気づかせることに懸命になるより、他の代替案を考えていく作業に切り替えていく事も大切です。
思いつく、という事を教えてすぐに習得させることはかなりハードルの高いことです。それをしようとする事で親子双方にストレスがかかり、信頼関係や自尊心といった事が損なわれるのであれば、本末転倒です。
これは長い時間をかけて、そして本人の性格に合わせて、あるいは親の子育ての価値観にも照らし合わせながら、試行錯誤して積み上げていくものです。
では、どのような対応がすぐにできるでしょう。
・反応しそうな刺激をなるべく減らしていくという環境面から整えていきます。
・やるべきこと(やりたいこと、ではなく)、宿題そのものが反応したくなる刺激になるようにすることができれば理想ですね。
・時には学校の先生に協力してもらいながら、宿題のやり方を変えていくという選択もあるかもしれません。
・宿題そのものに本人にとってのモチベーションがなければ、別のモチベーションを用意することで、結果的に宿題をやるようにさせるという方法もあります。よく使われるのが、トークンエコノミーという手法のポイントシールです。
これについてはまた詳しく書きます。
「判断が抜ける」ことを親子で共有する
上記のようにやらない、のではなく、興味ある刺激に反応しているだけ、の状態にある子どもは、自分の行動が悪いと思っていないのではないでしょうか。
故意にサボっているのではなく、興味ある事に心惹かれている状態です。
ですから、それをいつも叱責される子どもは、自分は思わぬところでいつも親に怒られる、自分ではどうにもならないところで怒られる、自分が楽しんでることを怒られる、ということが日常になります。
親からの評価は、子どもの自分自身の評価となっていきます。
自分はダメなんだ、自分が楽しいと思うことは人から怒られることなんだ、どうしたらちゃんとできるか分からないからどうしようもない。
このような自己否定的なイメージを自分自身として自分の中に刷り込んでいくかもしれません。
もし、「判断」が抜けて興味ある刺激に反応しやすいのかもしれない、と思い当たるのでしたら、まずはその事を子どもと共有してくことが第一歩になるのだと思います。
その上で、解決法を一緒に考えていきます。親子でこうした共同作業をしていく過程で、否定的にとらえられがちな子どもの側面を、子どもの一つの性質としてとらえ、子どもが困りそうなら対処していく、といった生きる術の獲得へとつなげていきます。
これについてもまた詳しく書きます。
*このブログは臨床心理士としての経験的側面から書いています。医学的診断や根拠を上回るものではありません。
パニック
パニックに陥ると、それは言葉では説明しようもない、言葉に当てはめることができない現象が、自分の内部に起こる。
身体の中の警報器が発動し、感情のコントロールは不可能になり、
言いようもない恐怖感に襲われる。
理屈抜きに、逃れられない。
だから言葉にできるくらいの意識の状態で、
何も起こらないから大丈夫
見捨てられないから大丈夫
と説明しても励ましても、それは全く通用しない。
仮にそれでおさまるとしたら、それは一時的な対処療法で、
また同じような状況に置かれれば、再び警報器は発動する。
確かに、現実世界では恐れることは何も起きていない。日常の光景が当たり前のように流れているだけ。
だけど、自分の中に起こる破壊力はすさまじい。皮膚の表面がザワザワし、血の気が引き、心臓が縮み上がったような痛みを感じるかもしれない。
頭の中は、「どうしよう、どうしよう」が連呼し、どうしようもない恐怖や不安に飲み込まれる。
だからその度に、疲弊が積み重なる。
ではどうするか....
散々もがいた挙句にできることと言えば、ただその得体の知れない恐怖を感じ切るしかない。
自分の身体のどこに警報器が発動していて、それがどのように自分を追い詰めているか、思い切って感じることを選ぶ。
これはおそらく脳の認知不能の部分に関係する。
理性的な言葉は通用しない。
言葉にならない感覚には、言葉にしない感覚で向き合うしかない。
恐怖に飲み込まれている感覚をよく見てみる。
そしたらきっと、得体の知れない底知れぬ恐怖の影で、おびえた自分が顔を出すかもしれない。
繰り返し受けた傷つきで、当たり前になりすぎて、それが思った以上に根深いものだと
気づいてすらいなかった自分の一部が姿を現わすかもしれない。
そしたら、ようやくそこから言葉を使って、始めていく。
無条件の肯定的理解で、それはいったいどんな自分なのか、知っていく。
自分ではどうしてか分からないけど、強く反応して抑えきれない衝動といったものがあります。
「攻撃する」「逃げる」「固まる」といった情動には、自分でもコントロール不能なほどの強烈なパワーを持つ類のものがあり、それゆえそのこと自体が恐怖や不安となって、アイデンティティや生活環境まで脅かしていきます。
ではなぜ強い情動がなぜ起こるかと言えば、自分を守るためです。すべては自分を守るためなのです。それこそが解決のためのヒントです。
*このブログは臨床心理士としての経験的側面から書いています。医学的根拠を上回るものではありません。