私の見ている現実は『私の解釈』①
『私』の見方と、「あなた」の見方は違う
同じものを見ていても、どのように見ているのかは人によって違います。
『私』の見方と、「あなた」の見方は違う。
この事をきちんと認識できると、今まで見ていた自分の現実が、自分の解釈だったと分かる第一歩となります。
❖少し前に話題になった「青いドレス問題」
ドレスは
青×黒に見えますか?
白×金に見えますか?
自分が見えてる色ではない色で見えている人がいるという事実。
それを知らなければ、当然、みんな同じ色で見ているという思い込みを疑わないでしょう。
❖心理学で有名な「ルビンの壺」
この図は
壺の絵ですか?
人の顔が向かい合っている絵ですか?
白と黒、どちらを強く見るかによって、この図が全く違うものに見えます。
❖トマト
トマトは
美味しそうですか?
嫌な感じですか?
この場合、見方というより、感じ方の違いという方が適切かもしれません。感触が嫌な人もいるでしょう。ぐにゃっとした感じ。みずみずしさが好きな人もいるかもしれません。トマトを見ればその食感がよみがえりますか?
好きな具合が「好き!」なのか「好き!!!」なのかによって、食べたい欲求や唾液の量も違ってくるかもしれません。
感覚や身体の反応も違ってきます。
トマトが好きな人同士で「好き」と言っても、実は全く同じように「好き」だという訳ではないのです。むしろ本当のところは分かり得ない事、と言ってもよいかもしれません。
好き、嫌いは、感情ですが、思い出や記憶によって、より強い感情を伴ってトマトを見る事もあります。
例えば子どもの時にベランダでトマトを育て、家族で楽しく食べた記憶があれば、トマトを見た時に温かな気持ちがついているでしょう。
もし、両親がケンカしてる時に、トマトが投げられたりしていたらトマトは凶器の代わりとなるような、恐ろしい感覚を感じるかもしれません。
トマトはただの物体ですが、ただの物体として見る人はいるでしょうか。
青いドレスもルビンの壺もトマトも、『私』の見方で見ています。「あなた」とは違います。
『私』の見方は『私』の様々な機能的、器質的な感覚や経験などのフィルターを通して見るオリジナルのものです。
そして、そのフィルターはほとんど無意識にかけられています。
『私』の見方が事実と思い込む
「青いドレス」が、「私とは違う色で見える人がいる」という事が分かった時、多くの人は驚きます。
同じ物を見ながら別の見え方があるという事に、謎解きを知るまでは信じることができないかもしれません。
『私』が見ているものが事実だと思い込んでいれば、違う事実を突きつけられた時にすぐには認める事が出来ずに混乱するでしょう。
見方が違うという事、見ている物に解釈を加えている事、無意識のフィルターは、それ自体気づく事がとても難しいのです。
さらに、その見方を修正したり、違う見方を受け入れる事は容易な事ではありません。
『私』の見方が事実と思い込む事の影響
青いドレスやルビンの壺やトマトの見方に違いがあったとしてもが、『私』にはたいした影響はないでしょう。人と『私』の見方は違うということを抵抗なく受け入れられる事柄でもあります。
しかし、人や状況に対しての見方だったらどうでしょう。見方や解釈次第では、大きな苦しみや不安を生み出します。
そして多くの場合、それが「自分の解釈」だと気がつきません。それは自分のアイデンティティや生き方にさえなり得ます。それ故、違う見方や解釈を受け入れたり修正する事に抵抗が働きます。
『私』の見方が事実だと思い込む事は、人生に多大なる影響を与えながら、気づく事はとても難しく、時に『私』の見方で自分を苦しめながら、この苦しみは自分ではどうにもならないと思うのです。
まずは上にあげたような『私』に影響のそれほどないシンプルな題材で、
同じ物を見ていても、『私』の見方と、「あなた」の見方は違う
という事を本当に実感として腑に落としてみてください。
人によって見方や感じ方は様々です。
見方や感じ方は測る物差しの無いものだから、自分と同じだと誤解しがちです。
自分の見ている現実は『私の解釈』、という視点を自分の中に取り入れられた時、苦しみや不安を緩めていくことにもつながっていくのです。
たんに、考え方を変えるといったことではなく。
*このブログは臨床心理士としての経験的側面から書いています。医学的診断や根拠を上回るものではありません。