発達障害かも
感性や感覚、物事の見方が他人と違うということ
『感性や感覚、物事の見方が他の人とは違う気がする』
そう気がつくのは、その人がずいぶんと壁にぶち当たり、傷ついた経験を重ねてきたからだと推測します(もちろん、そうではない人もいます)。
自分と他人の違いは、たとえ日常の場面でそれほど目立つものではなくても、他人とのやり取りのかすかな瞬間に、その人の内部では大きな衝撃となって突きつけられる体験をしてきたかもしれません。
「なぜ今の言葉でこの人は怒ったのだろう」
「なぜみんなは複数人で話していて、会話に入るタイミングが分かるのだろう」
「なぜみんなはいつの間にか計画を立ててやることをスムーズに実行しているのだろう」
感性や感覚というものは厄介です。
目に見えるものではないから、その質も内容も比べようがありません。
特に子どもの頃は、自分が感じるように人は感じている、自分が見えてる世界が世界の全て、としか思えません。
年齢を重ねるにつれ、自分と他の人には違いがあると認識するようになってようやく、共感や否定という他人からの反応で、自分の感性や感覚、物事の見方が他人とどのくらい共通しているか、あるいは異なっているか、感じるようになってきます。
「普通はさ、」という感覚も、これがみんなから受け入れられる感覚、というものを体験として身につけていったもので、普通をさし示す定規があるわけではありません。
一方で、感性や感覚の違いが大きいということは、否定や叱責といったネガティブな反応を受けることが多く、「普通ではない」という思いを刷り込まれる可能性があります。
この生きづらさはもしかして発達障害?
集団の中で、社会の中で、どうも生きづらい。それは自分がダメだからなんだ。
「大多数の感覚と違うのではないか」という漠然とした思いは、そう気がつくまでの経験から自己否定に結びつけがちです。
コミュニケーションの取り方が分からない
他愛もない話ができない
いつ頷けばよいのかわからない
じっとしてられない
時間に遅れてしまう
見通しが持てない
整理整頓できない
忘れてしまう
自分のこだわりが崩せない
自分の思考にとらわれてしまう
キレてしまう
文字をうつすのが苦手
計算できない
すぐに自分の世界に入ってしまう
一生懸命にやってるのに、真面目にやりたいのに、上手くできない、迷惑かけてしまう...自分はダメなんだ。
そして、「もしかしたら発達障害なのではないか、、」そんな風に思いあたったり、言われたりすることがあるかもしれません。
あるいは子どものこと、身近な人について、その可能性について考える必要に迫られているかもしれません。
人によっては、発達障害という言葉で「自分がダメなわけではなかった」と長きにわたる自己否定感から救われる場合もあります。
一方で、自分のことではなく、特に子どもについての場合、親にとってその衝撃は大きく、受けとめきれない場合も少なくありません。「障害」とつくことについて、このことについて、ここでも慎重に扱っていきたいですが、人によってはすさまじい負の威力がこの言葉にはあります。
ですが、発達障害は決してダメなことではないということをお伝えしたいです。
発達障害の診断は、生きていく術を身につけるためのツール
発達障害という言葉は、レッテル貼りのためにあるのではありません。
もし発達障害の診断が必要なら、それは自分自身の理解と周囲からの理解のためにあるのです。生きる術を身につけていくためのツールです。
集団や社会という文脈の中で、少しでも私らしく生きるため、その子らしく生きるため、少しでも生きることが楽になるためにあるのです。レッテルを貼るためではないのです。
上手くいかずに否定ばかりしていた自分を、それは単に一つの自分の要素であると真に理解し、受け入れることができるのなら、診断は価値あるものだと思います。
診断=自己否定に結びつきませんように。
そうでないと、生きていく術を身につけていく余裕がなくなります。生きづらさに無抵抗になります。力を失います。
「発達障害」という名前だけが一人歩きしているかもしれない、「障害」という言葉がついているがために負のイメージがつきまとっているかもしれない、世間一般的には良く思われていないかもしれない、、、そんな発達障害のレッテルを外すのは、難しいことかもしれないけど、少しでも外せたら、そして発達障害かもしれなかったら、集団や社会という文脈の中で自分が困ることは、生きづらさを感じる場面では、『術』を身につけることを考えてほしいと思います。アイデアと工夫と周囲の人からの協力で。
「みんなと同じように」ではなく、まあこのくらいならどうにかこうにかやっていけるかな、と自分が思える程度まで。
当たり前にできる、を目指すのではなく、最低限のところはおさえる、くらいで。
自分(子ども)のために、 乗り切る『術』を身につけていってほしいと思います。
本来の自分(子ども)らしさを発揮するために。
これからも、発達障害についての全般的なことから具体的な対処法などについて書いていきます。
正解は自分の心の中に
カウンセリングとは?
カウンセリングというと、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか。
悩んでいることを話せば、解決方法を教えてくれたり、アドバイスをくれるというイメージでしょうか。
カウンセラーやセラピストを前にして、あなたは『どうしたら良いですか』と聞くかもしれません。
それに対してカウンセラーは、〈こうしたらどうですか?〉となにか良い案を教えてくれるでしょうか。
〈一般的には、普通は、常識的には、これが正解ですよ〉
あなたがそういう正しい判断や基準を求めたくなるかもしれませんが、それはもっともなことです。不安な時こそ、なにか自分を支えてくれる確証がほしいものです。
一方で、あなたは怖さも感じるかもしれません。
考え方を変えなければいけないのは分かっている。
間違っているのは分かっている。
本当はどうすべきか分かっている。
でもそうできないから苦しい。
相談したら、カウンセラーからなぜ変えられないんだ、と思われるのではないか、指摘をされるのではないか、
第三者に指摘されたら、自分を変えられない自己否定感や罪悪感に耐えられないかもしれない、
そのような思いが無意識のうちに恐れとなってあなたを覆うかもしれません。
そして、人に相談することを諦めて、たった一人苦しみを抱え、これが自分なのだと自分自身を納得させ、苦しみや不安があって当たり前という人生を、自ら引き受けて歩んでいくかもしれません。
これは良い、悪いの話ではありません。
人の生き方、在り方について、良い悪いの基準を用いてする話ではありません。
その人にとってどうかというお話です。
本来のカウンセリングは、自分のと対話です。
自分を深く深く知り、受容していく過程です。
そうすれば、おのずと問題を解決する方法が見えてきます。
本当の正解はどこに
正解を探すのであれば、外の世界にそれはありません(参考にしたいことは山ほどあります♪)。
正解は自分の中にあるのです。
外の世界に正解を探すと、どこかで自分にダメ出しをします。偶然にも外の世界と自分の中の正解がマッチしたらラッキーですが、たいがいはどこかにズレが生じてきます。
そして一つ問題が解決しても、また次に違う形の問題となって現れてくるのです。
問いかけ、受容、そして自然体の自分へ
自分の中の正解を探すことは、とても価値があることです。
なんの根拠もなく、これで良い、と心の底から思えることは素晴らしいことです。
心のつっかえやモヤモヤが取れ、気持ちが軽くなり、リラックスし、不安のない状態を経験することは、人によってはとても新鮮なことかもしれません。
本来のカウンセリングはこの経験をするためにあります。
ですが、自分の心と対話するということは、想像を超えた未知のことです。
人が意識していることはほんのわずかで、自分が考えたりや感じたり行動したりといったことは、ほとんどが無意識に行われています。
ですから、自分の中に深く潜り、自分と対話するということは、今まで自分が思いもしなかった思いや感情に出会うことがほとんどです。
時にそれはとても恐ろしく、抵抗するさえあります。
とても見たくない苦しい、悲しい、あるいは猛烈な怒りの感情だったりします。
だからこそ、カウンセラーというガイドが必要なのです。
その人が少しずつ自分の心と対話できるように問いかけながら、
どこまで進むか見極めながら、
その人自身が自分のどんな感情も受容できるように、安全に無条件の受容で
ガイドしていきます。
本当の意味で、心の深い所にある思いや感情を受容できれば、
歯車の噛み合わせが少し変わります。
力を入れなくても、ゆっくりと違う噛み合わせの歯車は回り始めます。
そして、始めからそう思うことが当たり前だったかのように、
その人の自然のままの、無理のない、答えが
心にあることを発見するのです。